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不昧公の正室・方子と娘・玉映の落款
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オススメ度 4.2点
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原文は「源氏物語・澪標の巻」として美しく描かれている
自筆「源氏物語」の筆者である「大炊御門宗氏(おおいのみかどむねうじ)」は、室町時代の第103代天皇である後土御門天皇(ごつちみかどてんのう)の曽祖父です。大炊御門宗氏の長男・信宗の娘が大炊御門信子(のぶこ)であり、信子は後花園天皇の寵愛を受け准后として御所に居住し、皇子を生み後に第103代後土御門天皇として即位し、信子は生母・皇太后となる。
関白・近衛基熙(このえ もとひろ)は、後水尾院(第108代後水尾天皇)の皇女・常子内親王と結婚。綱豊は、のち第六代将軍・徳川家宣となり、熙子(ひろこ)は将軍家宣の正室となった。茶会の際、基熙が所蔵する藤原定家・自筆の「定家色紙」を持参した記録がある。(資料の記録は下記に掲示)
出品した「源氏物語」は、南北朝時代から室町時代前期の公卿であった「大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)」の自筆です。「源氏物語」には、応永五年(1398)~応永十三年(1406)までの複数の年号の記載があることから、少なくとも応永五年から8年間にわたり書かれていることがわかる。また、各巻ごとの書かれた年については不明。また、落款から、後年、近衛基熙(1648~1722)の所蔵となり、時代が下って、松平不昧公の手にわたり、正室・方子の所蔵となったものである。
大炊御門家は、平安時代末期摂政関白藤原師実の子経実・治暦4年(1068)~天承元年(1131)を祖として創立された。初代、経実の子経宗は平治の乱で平清盛方の勝利に貢献。出品した「源氏物語」の筆者・大炊御門宗氏(おおいのみかど むねうじ)は、大炊御門家13代の当主で南北朝時代から室町時代前期の公卿。備前権守、参議、権中納言、権大納言などを歴任し、応永27年(1420年)に内大臣に昇任した。炊御門宗氏・自筆「源氏物語」は、近衛基熙が研究のために収集し、のちに出雲松平家に伝わり、松平治郷の正室・方子が鑑賞していたものです。数ある自筆「源氏物語」の中で、第一級品と称される貴重な自筆です。第14帖。11歳になった冷泉帝は、年齢より大人びて源氏の生き写しのような美しさであった。親友の頭中将も、権中納言に昇進し、12歳になる娘を入内(帝の妃となるため後宮―妃たちの御殿―に入ること)させようと大切に育てていた。その秋に、源氏の君は住吉にお礼参りのため参詣した。このことを知った源氏は、歌と慰めの言葉を送った。山岡鐵舟題字。■源義經=Genghis Khan説。
「澪標(みおつくし)」自筆原本の上部には、「心寧累自息」《心寧(やす)ければ累(るい)も自(おのずか)ら息(や)む》という漢文の篆書印が押捺されている。この言葉は、「澪標」の巻の原文には「みつからも、もて離れたまへるすちは、さらにあるましきことと思(おほ)す」とある。源氏の君は、冷泉天皇の父として太政天皇に即位する。篆書印の詩文は、この原文と白楽天の心情を重ね合わせたものと推定される。詳細な理由は下記説明欄に記載(自筆表面の凹凸はストロボの反射によるものです。
「自筆原本」
自筆右下の印2つは、出雲・松江藩主・松平治郷の正室・方子・と娘の幾千姫(玉映)の落款。言葉の意味は、「心安らかならば煩(わずら)いも自然に消える」である。
《原本中の凹凸はストロボの影響によるものです。古切に至る詳細な経緯は下記「希少価値欄」に記載
(1)・自筆の「原文の読み下し文」は次の通りです。言葉の意味は、「心安らかならば煩(わずら)いも自然に消える」である。》
《みよし(住吉)にまう(詣)て》・・・・給ふ。
おり(折)しも、かのあかし(明石)の人、とし(年)ことの
れい(例)のこと(事)にて詣つるを、こそ(去年)ことし(今年)は、
さはること(事)ありておこたりけるかしこまり、と(取)りかさ(重)ねて、
思ひたちけり。きし(岸)にさしつくる
ほと(程)み(見)れは、のゝしりてまう(詣)て給ふ人のけはひ(気配)、
なきさにみ(満)ちて、いつくしきかん(神)たから(宝)をもて
つゝ(続)けたり。
「た(誰)かまう(詣)て給へるそ」と、・・・・《と(問)ふめれは》
(文責・出品者)
「原文の読み下し文」は、読みやすいように「通行訳」としております。
《「源氏物語」澪標(みおつくし)の巻》
《東宮(皇太子)が冷泉天皇として即位、源氏の君内大臣に昇進》
《予言通り、源氏の君と明石の姫君の間に姫君が誕生》
《藤壺の中宮・出家の身であるため冷泉天皇の母であることから皇太后に準じる待遇を受ける》
《源氏の君と明石の君、それぞれに大願成就を感謝し住吉神社に参詣する》
《その秋、源氏の君は住吉にご参詣(さんけい)に》・・・・なる。
そうした折も折、あの明石の人が、住吉には毎年の恒例の行事として
詣でているのであるが、それを去年今年とさしさわりがあってお参りを怠っていた、
そのお詫(わ)びもかねて思い立ったのだった。
ところが岸に船を着けるときにふと見ると、大騒ぎに騒ぎたてて
お参りになる人々のにぎわいが浜辺いっぱいにあふれて、立派な奉納の品を
捧げた行列が続いている。
(明石の君の供人)「どなたのご参詣ですか」
と明石の君の供の者が尋ねたらしいのに・・・・・《答えて、
「内大臣殿(源氏の君)が御願ほどきにお参りになるのを、知らぬ人もいたのだね」
と言って、つまらぬ下賤(げせん)の者までもが得意そうに笑う。
《航(澪標)》
此行了愿,仗非常壮,世盛,
一。正在此,
明石也赴神社参拜。
去年了孕,今年了生育,都不曾去,在便将次并作一次。船靠岸,但岸上常,了参拜的人,
珍的供品不地来。約140頁。明石船上的人向岸上人:
“,是来参拜?”
中国訳文の出典:『源氏物語(Yunsh wy)』
豊子愷(ほうしがい)中国最初の「源氏物語」翻訳者(文化大革命で没)
左の写真が「源氏物語」澪標の巻の末尾(原本番号36-A)の押印。冬姫は内大臣・通誠の養女。正式な名は伊達貞子。言葉の意味は、「心安らかならば煩(わずら)いも自然に消える」である。表紙の下は一覧の拡大写真(仙台市立博物館・刊行)
(奥書は、令和2年11月29日に蔵の中の桐箱から発見されたものです。
上記絵巻は、源氏の君の住吉参詣。
出品している書の「断層(MRI)写真」の原板は、レントゲン写真と同じ新聞の半分ほどの大きさのフィルムです。日本国内では医療用以外には見ることのできない書の「断層(MRI)写真」です。撮影後、展示のために再表装をしております。
国内における鑑定人は、自筆の筆者を識別するために、個々の文字ごとに字画線の交叉する位置や角度や位置など、組み合わせられた字画線間に見られる関係性によって、個人癖の特徴を見出して識別する方法、また個々の文字における、画線の長辺、湾曲度、直線性や断続の状態、点画の形態などに見られる筆跡の特徴によって識別する方法、そして、書の勢い、速さ、力加減、滑らかさ、などの筆勢によって識別する方法が一般的な手法です。数値解析は、文字の筆順に従いX、Y座標を読み、そのX、Y座標をコンピューターへ入力後、コンピューターによって多変量解析を行うものです。青木理中浄書。。@1926年 絵にしたる歴史の裏 田村孝之介 俳諧 俳文 浮世絵 漫画家 洋画家 大西孝之助 信濃橋洋画所 風景 裸婦 スケッチの技法 永田禎彌。泉花堂三蝶『諸鳥飼伝百千鳥』寛政11年序 塩屋喜助刊 江戸時代和本 飼い鳥の餌の製法や病気治療法など鳥の飼育全般を解説した博物学書。写本 喜多川義比口演『有機化学』明治26年 京都府立医学校(現・京都府立医科大学)有機化学講義録 京都府立医科大学附属病院薬剤部長。近藤有芳画 南原桂処(南原薫)著『大成真写譜』(全2冊揃)明治21年寿泉堂蔵版 彩色木版画譜 博物画譜。諸病秘書 写本 医学 蘭学 オランダ 古書和本古本和本 江戸期 NC。@1937年 朝鮮総督府鉄道局 交通図 検索: 軍閥 李朝 李王朝 古建築 生写真 日朝併合 満州 軍事地図 台湾 妓生美人 京城 司令部 関東軍 平壌。長谷川伸旧蔵書 矢部甚一郎『歌集 雪代集』昭和15年 かぐつち社刊(本郷区根津片町)。宇田川文海『春宵閑話新街夜作楽』明治17年 福島幾太郎刊(大阪府)明治時代和本(和装活字本)。出品以外の所蔵品を紹介した出品者のホームページ「源氏物語の世界」をご覧ください。
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